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日本人は「民度が高い」か

(2012 8 8 )


補)民族、人種について

以下では、民度を語る場合、一定の前提を置いた上で「同一の時間軸上で、それぞれの諸制度化における”その時の”人々を『民』としてグループ分けすべきである」とした

日本人が日本人の民度を考える場合、「民」の定義が他のグループと比べてあまりにも容易であるため、「日本人の民度」あるいはそれと比較した諸外国人の民度を語る場合に根本的な間違いを犯す危険がある。

定義が容易であるといっても「○○人」というものを歴史学、民俗学、生物学、その他諸学問で一片の遺漏なくカテゴライズするのはそもそも不可能なのであって、普遍的な困難はあるのだけれども、「外縁部の曖昧なカテゴライズ」をする場合には、諸「ガイジン」と比べて日本人は非常に容易である。だからこそ日本人をモデルケースとしてしまうと、「○○人を論ずる」場合に非常に間違った論立てに陥る危険があるということだ。

地理的に日本人の近くに居る「中国人」の事を考えてみれば早い。

個人的には「中国人」などという日本語を無批判に口にする人が軽蔑される日が来ることを望んでやまないが、「中国人」というのは現在、日用語として使用されている言葉である。

「中華人民共和国国民」或いは(現在日本語ではその意味で使われていないが)「中華民国民」という意味での「中国人」というコトバであるならば、国際法上、或いは国際関係下でイシューとして扱われている区分上、「中国」という言葉遣いは流通しており、
例えばオリンピックなどで「中国代表」と表現されるのは”正当”な事である。


しかしチベット・ウィグル問題を見るまでもなく、上記の規定は非常に短期間の暫定的な枠組みに過ぎず、
現在の「ウクライナ人」を「ソ連人」とは最早呼ばないように、時の国家の有り様で幾らでも変わる言葉遣いなのであって、現に先の大東亜戦争を語る場合「中華人民共和国人」という意味での「中国人」というコトバは全く無意味であり、その場合(日本及び世界史の近現代史を語る場合)「支那人」(チャイニーズ)という言葉遣いが、日本語では最も適切であろうと思われる。

しかし、その支那人とは何かと言えば、
その語る論題の時代に、彼の大陸に住まわっていた人々の総称という他なく、言葉の指し示す対象は依然として曖昧模糊としているのである。

支那人(チャイニーズ)の語源はいわゆる”始皇帝”が統一した秦であって、現代まで伝わる「中国の正統史観」下における”漢人”を支那人としても良い。・・・のであるが、ここですでに秦と漢という別の国家が登場してしまう。
漢人とは「漢字を用いる人」くらいの意味で捉えて良かろう。すると漢字を伝達手段として用いていれば支那人ということになってしまうのか。

話を戻して、中国の「正統」史観という場合の正統とは、我々日本人の考える「正統」とは異なる。
例えば現代の”中国”における正統史観というのは主に毛沢東共産党によって強烈に修正が施されている。

(その史観にそって我が国の歴史教科書が編集されており、それは我が国が現代の情報戦において完全な敗北を喫している一例となっている)

それは彼の大陸に起こった王朝一般に言えることであって、その時の王朝が正統とした歴史が即ち正統な歴史となる。

私が彼の国における「正統」と我が国の「正統」の違いに気づいたのは遅ればせながら北京五輪の前後の頃、
中国共産党が主張する「正統な領土」「正統な歴史」という資料で、
最も版図の大きかった清帝国が「正統な領土」であり、「正統な中国史」に元が含まれているのを見た時である。

最初は噴飯物であった。歴史に然程詳しくなくても「清」がいわゆる漢人の国ではなく、辮髪でおなじみの「満州人」の国であったことは、学校で習うか、或いは常識の範疇として知っていることであろうし、
元がモンゴル人の国であることはそれ以上に明白で、チンギス・ハーンや元寇という言葉は小学生でもしっていそうなことだったからである。

これを知った時、主に保守的な考えを持つ人などは「さすが支那人は傲慢である」と一笑に付した向きが多かったと思うが、それは日本人が自然ともっている歴史観と彼方の歴史観、正統性の意味そのものが違うのであって、
決して鼻で笑えるような事ではないと気づくのに、私などは少しの時間が必要であった。

日本人の場合、日本神話を尊んでいる場合でも、いわゆる歴史的事績が証明する歴史を歴史と考える者であっても正しいと思しき歴史はおおよそ古代から現代までひとすじに流れるものであって、途中でそれまでの流れを不当だとして我田引水の歴史観をデッチ上げるような者がいればそれは異端とされるけれども、かの大陸においては国家運営が失敗し正統なものがたりを語り継げなかった支配者の歴史が異端なのであって、常に新しく起こった時々の王朝が正統とする歴史が正統なのである。

清、元が中国人の国である」という主張を笑ったとき、一歩立ち止まって考えてみると、「それでは明は、宋は、あるいは唐や隋などは、いわゆる”中国人”の国だったのであろうか」という疑問が自然に出てくるはずである。

そこで「正統な中国史」に頼るとするならば、古代王朝から元や清も含めて、更にはウィグル、チベット、満州その他を含めて”中国である”とテンとして恥じず主張出来るという事になってしまう。

あるいは、漢字を使う人という意味での漢人という言葉に頼るのであれば、所謂「漢化」の陥穽に陥ることになる。
特に、日常会話や文化に及ぶ徹底的な(民族浄化的な)漢化ではなく、異なる言語を持った者どうしが書き文字として使用する漢字を「漢人の条件」とするのであれば、「漢人」の定義は、我々日本人の常識から大きく逸脱してゆくことになる。

語源を頼りにするならば、秦王朝の時代から続く血統的子孫を支那人と呼ぶことも出来ようが、現代においてそのような人を探す事自体が困難なのではないか。

また、ロシア語などでは、”中国人”の語源は契丹である(キタイスキー)。
語源を頼りにすると、諸言語における「中国人」という言葉が指し示す対象がそれぞれ別のものを指すことになる。

厳密な定義を脇に置き、最も「中国人」という言葉遣いが問題とされる近現代史において、「漢人」という場合は、清朝で満州族と共に国家を形成していた、主に明朝をルーツに持つ一群の事を指す場合が多いだろう。
さらに近視眼的に、北京語を使用する人間が”正統な”支那人であるなどとはとても言えまい。


言及されるその時々に於いて「中国人」という言葉のみならず「漢人」という言葉の指す対象も異なってくるという事を考えれば、「日本人」という言葉で示される一定のグループが(外縁は模糊としていても)いかに”指し示しやすいか”がわかるということである。

歴史、民族を語る場合、現代の価値観に寄らず安易に「○○人」と呼び捨てるのは慎むべきであるのは当然だけれども、
民度を語る場合にはその時の制度下における同時代的・並行的な比較分類をしなければならないのではないかと考える理由の一つは、歴史的背景をもった単一の対象として見ると誤りを導くグループが地球上には無数にあるという事実である。

(2012/6/3)



東日本大震災以降とくに、”日本人の民度の高さ”が語られることが多くなったように思う。

しかし、特に政権を選ぶ際などに、ほとんど自殺的と言える(民主主義ってダメだな、と短絡的な感想を抱かせるような)白痴的な行動を取る様をみるに、日本人の民度の低さに対して絶望感を抱くのも事実だ。

「日本人の多くは、本当は賢明で民度が高いにもかかわらず、変更したメディアや教育の洗脳によって、例えば民主党に投票するというような愚かな行動を取らされている」という説がある。
戦後レジーム下の洗脳(に似た言語空間)が強力に日本人の精神を犯しているのは間違いないけれども、メディアや教育のみが「日本人の民度の低さ」の原因であるとしてしまって良いのだろうか。「主犯」だけを批判するのみでは、日本人の民度とは何かという問が隠されてしまうのではないか。
偏った情報が与えられていない時には日本人は常に正しい政治的判断を行うのだろうか。

1,民度とは   
(↑ 2012/6/3 挫折した設題)

(↓2012/6/11)

民度とは、と書いてから一週間以上書き進められなかったのは、最初の構想に誤りがあったからだ。

まず、ある概念を考える場合の常道として、語源を調べ、欧米語圏での用法について解題するという方法は取らず、「民」と「度合い」という言葉の意味を解きほぐすことから始めた。

書きはじめの時の構想は、民というものを「文化を共有する各グループ」程度に捉え、
さらに「民度」を「文化的民度」と「文明的民度」などというふうにカテゴライズして、生活者としての日本人の民度の高さと、政治的意識の低さを説明しようとしていた。

しかし、「日本人の民度」という場合の「民」を単純に一つのグループとしてしまうと、
その「度合」について考えたり、また他のグループを考える際にどうしても齟齬が出てしまい、整合的な「説明」が出来ない。

あるグループの「民度」を考えるときには、”今その時の情報伝達手段”が決定的に大事であるという事に気づいた時、自ずから「民」が規定された。
まずは、民というカテゴリーを意味付けせず「民度」を考えるという矛盾したスタート地点を取る。
「民」「度」を定義してから解析するという演繹的方法ではなく、民度という言葉の日常的な意味から関連しそうな概念を手探りし、そこから「民」を規定しようという帰納的試みと言えるかもしれない。


2、民度をかたちづくる諸例

言語や文化を共有しているグループをひとつの「民」と考えて、複数のグループにおける民度を考えた所で当初の目論見は破綻した。
言語を共有していても、また、類似の文化圏(文化という概念の詳細はここでは省略する)においても、異なる性向をもった「民」は想定できる。文化圏という概念では、民度について語ろうとする時には射程が広すぎる。

「民」とは何かを規定せず民度について考えるという漠とした試みの中で、教育という言葉がヒントになった。
あるグループの「民度」を測る際、そのグループに施される教育も一つの判断基準であると仮定する。
教育は(原始社会においても)それぞれが所属する社会の(政治的)意志によって規定される。民をグループ分けする時、教育制度を規定する社会の種類によるグループ分けが可能である。

ここで国家概念を持ち出すのは早計である。同一の近代国家であっても教育制度が異なれば、上記のグループ分けでは別グループになる訳であるし、国家成立以前の社会状態でも、極端に言えば言語獲得以前の社会においても教育(情報継承)を規定する社会意思は想定されるからだ。

また、情報の伝達手段という要素も「民度」を形成するのに重要なのではないかと”思いついた”。(教育が判断基準であるという仮定も、情報の伝達手段という思いつきも、後にもう一度検証されなければならない)

あるグループが他のグループと異なる「民度」を持つためには、そのグループ内での情報伝達手段と情報伝達内容に違いが存在しなければならないのではないか。
この場合の「情報」の違いには無論言語の違いや、情報媒体(メディア)の違いが含まれる。
そうであるならば、「民」は、そのグループの情報伝達手段と情報伝達内容でも仕分けすることが出来る事になる。

さらに、経済的な状態も「民度」を規定するとは考えられないだろうか。もし経済(これもまた近代経済の範疇に限らない。捕食する生物が充足されているか困窮しているかという次元も含む)が民度に影響を与えるなら、
あるグループの経済制度とその状態も「民」を特色づけると言えるだろう。


こうして考えると、「民度が高い」「民度が低い」会話をする際、その「民」は”そのグループの属するその時の社会制度と状態で規定される”と推測される(諸々の仮定を前提として)

これは、「人間というものは個々で存在しているわけではない社会的存在である」とか、「人について語るときはその人の属する政治制度について考えることが不可欠である」といった、一般的なテーゼを意味しない。
「日本人の民度」について日常的にでも語る際は、民族論的であったり国家論的な縦軸の視点ではなく、”いま・そこ”という横軸的な視点から「民」を規定する必要があるという事である。
「日本人の民度」に言及する場合、しばしば民族主義的・保守主義的な観点から語られることがあるが、
上述の仮定から考えた時、まず「民」は(言ってみれば左派・世界市民主義者ふうの)”いま・そこ”に在る状態で切り分けて考える必要があるのではないか。


3,民度の諸様相について






=========================================================================================-

ここでは「日本人の民度とは」という事を考える事が目的である

あるグループを想定し、言語を持つグループAと言語を持たないグループBに分ける。
(但し、言語を持っているかどうかという判断は曖昧なものであって、グループ間の線引きは”ぼやけて”いる→ゼスチャー、色彩言語。以後のグループ分けも、その境界線は”ぼやけている”ということを忘れてはならない)

冗談めかして言えば、ホモ・サピエンスは玄武岩やミドリムシより民度が”測りやすい”




「わたしの国は他所と比べて民度が高い/低い」という言説は、しばしば民族主義的なしやから語られる。また、「民度を云々するのは偏狭なナショナリズムに基づく偏見だ」というヒューマニスティックな言行も見られる
それゆえ、「民度」を考える際、民族論や国家論との関連を意識しがちであるけれども、それぞれで考えられる「民」は取り敢えず切り分けて考えるべきである















何故「日本人の民度とは」というテーマで何かを書こうと思ったのか、書きはじめの時は全くその動機が自分には分かっていなかったという事が面白い。
結局上記で書いたことは、書きはじめの時には自覚されていなかったが、私が「民」について間違いに気づき所々の本を読んだり考えたりして到達したと感じている事は、既に当初から与えられていたものなのかもしれない
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